mixiを書いているとこっちに書くこと無くなりますよねぇ、ほんと。
もうすぐ春ですね、ちょっと気取ってみませんか。


今のグラボならBFは出来るのかもしれません。試してみましょうか。

すごい

2006年1月31日
BFがやりTEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEE
春になったらグラボ買い換えたいね、今地味に忙しいんだ。
日記を二カ所で付けていると、片方書くの忘れますね。
いや、両方か。

SGブームですかい?

2005年12月29日
面白そうなんですけれどね。

戦場でディテクターが爆撃してきたりで混乱しました。
というかほとんどの人がmixiメインになっている気がしないでもない。と思います。まる。
ttp://www.rakuten.co.jp/naka/611977/611978/

誰かかってー。

なるほど

2005年12月9日
ちょっと知人と会話していたのですがね、やっぱり強弱っていうのは重要だね。

そう、なんていうか
たこ焼きは中のタコがまずいから周りの皮が美味しいように
あんまんやにくまんは中身がまずいから周りの皮が美味しいように
大判焼き、或いは今川焼きは中の餡がまずいから周りの(ry
温泉まんじゅうは(ry

なんてこったい。
私は餡が実は嫌いだったんだ!

次は一杯のお茶が怖い、とは違いますよ。
本当に餡は暖かいあんまんならまだしも冷たい餡はダメ、絶対。
我々が逃れることのできない悲しい業。
長い年月と共に失われていき、またある時に突然顔を出すまことに天の邪鬼な輩。
忘却という名の影法師が、常に我々の足下から引きずり込もうと虎視眈々に狙っている我らが歩んだ道。

その魔手から逃れるために我ら人類が編み出した至宝。
備忘録と名付けられた神の祝福は我々を守ってくれよう。

後世に残すべき二度とは得難い素晴らしい響き。
天啓を授かりしその時に、より強くイデアを残そうとするために。
進むべき道の導となってくれる風景の数々、そして美しき心を刻み込むことを、僅かな何かしらの書く物を持っているだけで成し遂げられる行幸。

嗚呼、だのに、何故私はこれ程までに悔恨させられるのだろう。
彼の悪魔は神の祝福までをも奪い去っていこうというのか。

そしてまた、こう言わねばなるまい。
我が思いの丈を人に伝えるための手段、それがもうこの様な近くに来て微笑んでいてくれたのだとは。

備忘録

2005年12月6日
色々なところで役に立つ備忘録。

これは矢張り常に携帯しておきたい物ですね。

例えば出先で何かネタに成りそうな物を見つけたとき。
ふと何か思い浮かんだとき。

または、目で見た情景を文章や絵にして描写する際にも手元に備忘録と一本の鉛筆があれば困りませんね。

つまり、何が言いたいかというとですよ。

備忘録を忘れるようじゃもうおしまいってことですね。

追伸
コメントってもう機能していたんですね。

熱く語りたい

2005年12月2日
のにネタがない。
どうしよう。
そうだね、先日から続いているネタにストーリー性を持たせても面白いかもしれません。

まあ、今はアイデアが浮かばないのでどうしようもないのですが。



追伸。
サンダル奏者で来られるのは切ないですね。
さらにわかりやすくまとめてみようかと思います。

----ここから----

悩んでいるようで何も考えていない人がいましたとさ。

----ここまで----

どうみても適当です。
本当にありがとうございました。
ちょっとくどいよね。
修正の余地あり、だ。
なので三人称視点で書いてみようかとおもう。

深夜、暖房の利いた割と物の少ない部屋から明かりが漏れている。
そこでは、パソコンを前にして一人の男が座っている。
指を絡めたり解いたりしながら何かを考えているといった風だった。
その目は落ち着き無く何かを探すかのように揺れ、時々寄せる眉と落ちた肩からは覇気のなさを伺える。
彼をここまで追い立てている物の見当はつかないが、ただ時々唾を嚥下する様を見ると相当参っているようだ。
そして彼自身も、何か行動を起こすというわけではなく、ただ静かに息をするばかりだ。
ただCDから流れる音だけが、この部屋を包んでいるかのようだった。
彼は、ふと傍らに置いてある本を取り、栞を挟んであるページを開いた。
しかしすぐにまたその本を閉じてしまう。
落ち着き無く揺れる瞳は、開いた本を読むこともままならない、と語っているようだった。

いったいどれほどの時間が経っただろう。
彼は変わらず椅子に座ったままだったが、突然に手元から目の前のパソコンへと視線を移し、文章を打ち始めた。
一心不乱にキーボードを叩く様は何かに取り憑かれたように止まることなく指を動かしていく。
その手が再び止まり、何かを書き終えた彼は、再び視線を落とし思考の渦へと沈んでいくかのように動かなくなった。

とかどうですかね?
三人称って考えを入れられないから短くなってしまうね。
風景描写の練習には成りそうなものなのですがね。

矢張りあれですよ。
腕がほしい。
愛もほしい。Zoo。
叫びたい時ってありません?

特に精神的に追い込まれたとき。

そろそろ発散しないとノイローゼに成りそうな寸前ですネー?

と書いてみたものの、何か気に入らない文章ですね。
格好良く、美しく書き直してみましょう。

私は突然叫びたくなった。理由はなぜだか分からない。
ただ、一つ言えることは、今の私は精神的に追い込まれているということだろう。
どうしてこの様なことになってしまったのか、それに心当たりがないのだから解決の仕様もない。
だから私は、叫ぶことで少しでも心を軽くしようとしているのだと思う。
何らかの方法でこの心の重しを取り除かなければ、私は病んでしまうだろう。
そしてそれは、想像するだけでもとても恐ろしいことだ。
正気に戻ったときに、私の心がその事実に耐えられるという保証はない。いや、耐えられないと言った方が正しいのだろう。
それ以上に、そのまま戻れなくなるのが何よりも恐ろしい。
狂気に身を任せて文章を書くこと、それによって生まれるものはなるほどとても興味深い。
しかし、それを見て何も感じなくなってしまっては意味がないのだ。
私が生を吹き込んだ文章は、それはもう私の子供であると言っても過言ではない。
子供が道を踏み外すのを黙って見過ごせる訳もない。
言い換えるのならば、私の心は今、一匹の狂犬だ。一本の綱で括り付けられた狂犬。
もしもこの綱を外してしまえば、自由になるのと引き替えに二度と捕まえることはできない、止めることもできずに暴れるしかないだろう。
そんなことを私は許しはしない。
だから、叫ぶ。
もしも私により優れた叡智があったのならば、これを解決することができたのだろうか?
それ以前に、この様な事態を免れることさえできただろうか?
今更悔やんでも無駄なことは分かっている。
それでも悔やまずにいらようものか?
僅かな光、それが喩えまやかしだったとしてもそれを追うことを止めはしない。

とかどうでしょうかネー
一人称主体で書いてみたヨー。アイヤー。日本語難しいアルネー。

ところで、中国人が「アイヤー」とか「アルネー」とか言うのを聞いたことはないのですけれど、これは本当に言うのでしょうかね?
もしもそんなことを言わないのならば、誰が考え出した表現なのでしょう、とても気になる。

アイヤー。

ビアス曰く

2005年11月23日
幽霊の存在を信ずるとして、ここに乗り越えることのできない障害が一つある。
つまり、幽霊は裸体で現れることがけっしてなく、現れるとすれば、いつもきまって経帷子をきているか、あるいは「この世にあったときの服装」をしているか、そのいずれかであることである。
そうだとすると、幽霊の存在を信ずることは、死者には、肉体が完全に消えて無くなった後でも、自分自身を人の目に見えるようにさせる力があるばかりでなく、織物にも同様の力がそもそもはじめから宿っていることを、信ずることになる。

なるほど、脱帽だね。

つまりあれか。
幽霊をみたことがあるのならば、いつかは着物だけが中身もなく出歩くのをみるかもしれないね!

清く美しく

2005年11月21日
レジが壊れてパソコンが動かなくなりました。

結局最終手段として
バックアップなしでクリーンインストールしたとさ。まる。


新しいの買った方がよかったかもしれませんね。

犬猿の仲

2005年10月31日
冷えたビールと溶けたチーズ、コーラとメントス、ブレとEQのようにどうしても相容れない物、そんな物。




アイヤー、今回の日記は全く意味が分からないヨー

でぶすけさん。

2005年10月26日
おかねをもちあるかなければいいんだね!

生き甲斐、か。

2005年10月24日
自分が生きている上で最も幸せだと感じるものが生き甲斐である、
それが真ならば私の生き甲斐は何でしょう。

私にとっての生き甲斐は何であるか、それを命題にするのはとても難しいですね。今晩は。

あくまでも生きる目的と生き甲斐とは違うのでしょうね。

私にとって生きて価値があること、生きる目的は
次の世代に名を残すこと、だと思いますね。
主観で考えるのならば人は永遠に生きていられますが、客観的に見るならば意味のある人生を送っている人、価値がある人生を送った人は少ないと私は思います。

そうですね、私にとって生きた意味があった人というのは、
歴史に名を残した人、というものです。
例えばバッハ、例えば夏目漱石、例えばキング牧師、例えばゴッホ。

そのように死後も、現世に何らかの影響を与えうる人たちが生きた意味のある人、だと思っています。

反対に、歴史を作り名を残さなかった人々、例えば昔の戦争で国のために未来のために命を捧げた兵士達に生きた意味があるとは、私は思っていません。
それは立派だったとは思いますし、その志そのものは素晴らしい物だとは思います。

ですが、個人名として残っていないのではその人自身に生きた意味があったとは思いません。

営みの価値はあれども、個人の価値が在ったかとどうか問われれば私は否と答えますね。
あくまで主観ですが。

その観点でいえば、私には生きる目的や価値、意味があるかは疑問ですね。
多少脱線しているので閑話休題。

で。
私にとっての生き甲斐、ですか。
意味や価値が無くても人生を楽しめる事。
生きていて楽しいと思えることが生き甲斐なのでしょうかね。
だとすれば多くのことがありますでしょうね。

例えば町中で幸せそうな人がいればそれは素敵なことですし、こちらも幸せだとは感じます。
ですが他人の幸せを見るのが生き甲斐なんてことは全くないですし。

やっぱり個人の範囲で、自分が能動的に何かを行うことで幸福が獲られる物が生き甲斐でしょうかね。

だとすれば私は、先日の日記にもあるように、本を読むことだったり音楽を聴くことだったり、でしょう。

話がそれますが。
レスピーギの、リュートのための古風な舞曲とアリアの第二組曲第二番、田園舞曲はとても素敵。
もう本当に素敵。これ一曲でCD買った意味があるね。うん。

って言うくらい好きな曲ですね。素敵。

で。
生き甲斐とは趣味とは違うのでしょうか?

追伸。革命的野郎さんへ。
にくは必要だよ。

然し私は

2005年10月17日
本があれば生きていける。

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